こんばんは、玲子です

 

精神論と書いていますが

すごく偉そうなことも書かなければ

すごい事は書きません^_^;

 

どなたにでもあてはまるであろう

意識の事や壁の事を書きたいと思います

 

精神論と言っても

スパルタとかではありません。

 

精神性と自論はともて背中併せでもあり

また精神論と世論

精神論と精神世界など

様々な対象があったり

様々な比較があったりします。

 

ですが

私が思う精神性は自ら養うものであり

それぞれに生きる課題や

生きる為のステージ

乗り越える為の道のりが違うので

一概にこれ!と言うのがありません。

 

それぞれの精神性を精神論として

置き換えて自らの改革、変容を

生み出していくのが当然であると思います。

 

何かと正当化しようとして

一生懸命自論を展開しても

その方の育ち方、環境によって

またその方の考え方、思考、癖などで

すべてが変わってきます。

 

これは運命学でほぼ個性を

拝見していますが

魂と言う視点で見れば

その運命をもらい乗り越えるに

ふさわしい運命を運命(さだめ)として

頂いている気がしています。

 

どんなに素晴らしい運命家で

名前が知れていて周りから評価した時に

「学ばなくても大先生だ!」 

と言うような

著名な自分つが死ぬする時

 

「私には○○が足りなかった。

この人生、○○を学べば良かった」

 

と言いながら死した人がいたと

お話を聞いたことがあります。

 

評価とは周りの寸評や批評に準じる場合

評価とは自らの努力や誠実、智慧と努力と

言うように自分でどこまで掘り下げる場合と

 

過小評価、過大評価と言うのが

存在すると思われます。

 

精神論はきっと言い出せばキリがありません。

 

ですが自らのやりたい事

自らの信じる道を歩むことは大事な事。

 

時に何かを犠牲にしたり

時に何かを残して行ったり

時は孤独であったり

これは 課題 が大きければ

大きいほど孤独でつらい道のりとなるでしょう。

 

ですがこの孤独で長いであろうと思う

道のりこそが大きな光の入り口で

あるのだろうと信じています。

 

一番幼い精神論は

人の言うことに耳を貸さず

一見もせずに決めつけ

自論ばかりで他者をたたみかえる。

自らが正しいと議論し

間違った論を正当化するために

人を卑下し人を押しのけ

人の心を無視し歩むことであると感じます。

 

その精神性が育ったところで

心なき精神論となり

時には無情に時には独裁的に

我が欲に走るであろうと見解します。

 

人を見ずして精神論はありません。

心を無視して精神論はありません。

苦しいからこそ学び

苦しいからこそ、その光明は感謝なのです。

 

生きて学びを終える事はありません。

生きて完了はまず無しえません。

 

人の世も波動、波、規則性があります。

 

人は同じ世の中に生きていても

関わりのない人には縁は生まれません。

縁が生じると言うことは意味があることなのです。

 

そんなの理屈だ・・・

そんなのこじつけた・・・

 

そうですね^^

今はそう感じるかも知れません。

 

ですがあなたが会う相手が

意味なくして目の前に現れる事はありません。

 

じゃ・・・なんですか?

じゃ・・・どうしてですか?

じゃ・・・どういう意味がありますか?

 

こういう方が実に多いのですが

それを問う暇があるのならば

真摯に生き真摯に向き合いなさい。

 

そしてその意味と気づきを

自分で得る事です。

 

精神性とは自らでしか養えません。

 

本気で無いものにそれはありません。

 

これが精神であり神意です。

 

私はそう思えてなりません。

 

2011-01-27 過去記事

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